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このページでは、麦生集落の概要を説明しています。(屋久町郷土誌より)

由来 ◆ムギオは『岩が剥き出しの場所』という意味

「麦生」は「剥生」の当て字です。由来は集落の地形にあります。

花崗岩がゴロゴロしている土地が多い集落

昔の山地崩壊や河川の氾濫で地表が削られて

荒々しい岩肌の麦生の海岸

麦生は、ムギオと読みます。方言ではムイゴです。ムキは剥き(むき)の意味で、「麦生」は「剥生(むぎお)」の当て字です。これは集落の場所にちなんでいます。つまり、剥く、というのは、山地崩壊や河川の氾濫により、地表が削られ、むき出しになっている場所をあらわしています。それを物語るように、山寄りの土地には大小の花崗岩がたくさん見られます。

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概要 ◆人口280人、温暖な島南部、老年人口28%

屋久島の最南部に位置する集落のひとつで、ポンカン・タンカンなど果樹生産の中心地です。

平均気温20度、猛暑日(35度~)と0度以下の日がない

年間降水量3200ミリは東京の2倍、梅雨時に多く降る

一年中咲いているハイビスカス

麦生集落の地形は、東西2.5キロ、南北2キロ、人の居住地域については比較的平坦地が多く、海側は10メートル内外の崖となっています。
気候は年間を通じて温暖で、年平均気温は20度位(東京は16度位)です。1月でも平均気温12度ほどあります(東京は6度位)。夏のクーラー、冬のファンヒーターなどを使っていないお宅もあります(夏は扇風機、冬はコタツ)。
過去30年間で、0度以下と35度以上の日は一日もありません。

  • ・1月最高気温の平均値 15.9℃(東京 9.9℃)
  • ・1月最低気温の平均値  9.6℃(東京 2.5℃)
  • ・8月最高気温の平均値 30.8℃(東京 31.1℃)
  • ・8月最低気温の平均値 25.1℃(東京 24.5℃)
  • ・一番寒かった記録  2.0℃
  • ・一番暑かった記録 34.5℃


また、年間降水量は3200ミリ位です(東京は1500ミリ位)。年中雨が降っているわけではありません。梅雨時は毎日のように雨が降り、強く降ることもよくあります。湿度も高く、カビに悩まされる季節です。一方、冬期は、麦生など島南部は晴れた日が多く、暖かで過ごしやすい日が続きます。島南部の里で、氷が張ったり、霜が降りたりすることはありません。

パパイアの葉に積もったみぞれ

雪については、一冬に1~2回舞う年もあります。2011年1月の冷え込み(3.3℃)では麦生でもみぞれが降り、熱帯果樹のパパイアが枯れました。一方、その冬の冷え込みのおかげでソメイヨシノが何十年ぶりに花を咲かせたということもあります。
(以上は島南部の話であり、北部の気候とは異なります。また島中央の山岳地帯の冬は雪山で、年間降水量10,000ミリ地点もあります)
(数値引用:気象庁1981~2010観測地点尾之間と東京)

65歳以上が28%、70代でも元気で現役

ゲームを楽しむお年寄り
(介護予防教室で)

麦生には縄文時代から人が住んでいたようです。現在のゲートボール場造成のときにも石器、土器が出土しました。人口は一番古い資料で、285年前の1726年に123人が住んでいたと記録されています。2011年9月末時点では283人、159世帯です。(屋久島町全体では13,729人、6,870世帯)
人口分布でみますと、65歳以上の老年人口は28.75%と、全国平均の21.0%より高く、一方で15歳~64歳の生産年齢人口は58.25%(全国平均65.3%)と低くなっています。
しかし、実態としては、農業が中心の集落で すから、60代後半~70代の方々も現役で元気に働いています。また、実年齢をお聞きしてびっくりするようなハツラツとした80代の方が何人もいます。
15歳未満の年少人口については13%と全国平均の13.6%に近い数字となっています。やはり少子化は小さな集落でも同じかもしれません。
(2005年国勢調査「字麦生」データより)

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歴史 ◆縄文時代から住民、漁業から果樹栽培へ

三千年以上前から人が暮らしていた集落。生活水、食糧生産、道路整備に苦労した時代もありました。大正時代に入り、台湾から導入したポンカンの栽培が始まり、集落の基幹作物となりました。その後の空襲を経て、50年前にタンカン栽培を導入してから益々発展、昭和11年、麦生園芸組合が発足して今日に至っています。

農林水産祭「むらづくり」部門で天皇杯受賞(1980年)

50年前にタンカン栽培が始まり、ポンカンと共に主産業に発展

天皇杯受賞記念碑 公民館前

麦生の村名が資料に登場するのは、約350年前に作成された『屋久島大絵図』です。また、285年前(1726年)の資料には、123人の人が暮らし、カツオ船2艘、馬12頭がいた、と記されていることから生業は漁業と山仕事だったようです。


100年ほど前の主な生産品は、トビウオ、黒砂糖、サツマイモ、ガジュツ、下駄、材木などでした。第二次世界大戦(1939~1945)開戦後は、若者が出征し、空襲を受けて山に疎開するなど苦難の時代でもありました。


大正時代に導入したポンカン(かんきつ類)は、「ポンカンで日本一のむらづくり」を合言葉に増産に励み、長い間、集落の産業の柱でした。その後、昭和34年(1959年)にタンカン(かんきつ類)の植栽が本格的に始まると、さまざまな事業を導入して、樹園地を造成し、市場開拓、後継者育成と麦生の発展は勢いを増していきました。


そして、当時の集落の人々の努力は、昭和55年(1980年)に、農林水産省の全国農林水産祭で、全国20万余の農村集落の中から「むらづくり」部門で、日本一となり、天皇杯を受賞することにつながりました。その受賞は今も集落の人々の誇りであり、目指す方向となっています。現在は、トビウオ漁をしている人はなく、ポンカン、タンカンなど果樹栽培に従事している人が多いです。

 天皇杯受賞30周年記念行事(2010年11月23日)の写真ページへ
 農林水産省 「むらづくり」部門について(外部サイト)

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組織 ◆約90年前から続く自治団体

区長、書記、会計のほか区会議員10名を選出し、さまざまな集落運営事項について決議しています。

定期総会をメインに、区会議員会で詳細審議決定

消防団、青年団、婦人会、老人会、熟年会など団体も活動

さまざまな会合に使われる公民館

麦生集落の組織は、「麦生集落の地域内に居住するものをもって組織し、自立的自治団体とする」、となっています(麦生集落規約)。集落の役員は、区長以下22名(一部兼務あり)、任期2年、4月の定期総会で選挙により選ばれます。


役員の内訳は、区長1名、会計1名、書記1名、公民館主事1名、議長1名、副議長1名、相談役3名、区会議員10名、監事3名、(一部兼務可)。『屋久町郷土誌』によれば、110年前の明治34年(1901年)には代表者がおり、88年前の大正12年(1923年)には区長、書記、会計ほかの役員が選出され、集落の運営にあたっていたようです。


基本定例会としては、定期総会年1回、区会議員会月1回、団体長会月1回が開かれ、集落運営の各種事項が検討されています。


各種団体には、消防団、青年団、婦人会、若草会(熟年者会)、寿会(老人会)、子供育成会、交通安全分会、民芸保存会、婦人消防隊、園芸組合、野菜部会、果樹部会、若葉グループ、みどりグループ、船主会があります。

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写真 ◆集落の風景

暮らしにかかわる風景の写真を載せています。麦生集落ってどんなところ?・・写真でご覧ください。

自然の中で、自然と共にある集落の風景

3月、田植えが済んだ集落の田んぼ

むぎお集落はたくさんの自然に囲まれていますが、ここでは、人々の暮らしに近い風景の写真をご紹介します。「くわしい写真のページ」でご覧になって麦生集落の暮らしに思いを馳せていただければと思います。また自然の写真については「自然」のページでご紹介しています。

 くわしい写真のページへ

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地図 ◆屋久島の南東に位置する麦生集落


●麦生集落にあるお店、宿泊施設、観光ポイントの地図です

麦生の地図

この地図のみ表示するページはこちら 地図だけ印刷できます

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麦生集落の紹介

麦生集落の行事

麦生集落の産業、フルーツ産地直送

麦生集落の人々

屋久島町むぎお集落の自然

屋久島町むぎお集落の観光案内、宿泊

屋久島町むぎお集落への移住情報

写真のページ

屋久島の地図、麦生の位置

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『集落の紹介』のページ 終わり
『集落の紹介』写真のページは、集落の風景天皇杯受賞30周年記念行事 があります。